◎真の信心とは。本気で修行させてもらおう。本気で改まらしてもらおう。本気で、いよいよ大きな信心にならして頂こうという願い。
%1難儀でへとへとの時こそめぐりもへとへと。めぐりが五十でこちらが五十ならめぐりが必ず負けねばならないようになっている。
%2桜井先生二十メートル下に落ちて無事。広大なおかげを頂きまして有り難うございますだけではいけない。そこに神様の願いを分からしてもらわねば。
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昭和四十三年二月九日 朝の御理解
X御神誡 「信心する人の真の信心なきこと」
%U信心の心得、真の道の心得、その一番最後に、「信心する人の真の信心なきこと」。これは分からせられる事は、普通でいう真で成就せん事がないと言う。普通でいう真と信心する人の真と言うのは、違いがある事を感じますね。私は真と言うのは一つと思うとった。お道の信心は、ここにはっきり、「信心する人のとか、信心する人の真の信心なきこと」と、信心する人の真の信心というのは、信心のない人のいう真とは違う。
%Uそれはどう違うかと言うとですね。どんなに信心が無くて真が強いというてもおかげにはつながらないと言う事。信心のある人の真と言うのは、「この信心する人の真の信心なきこと」とおっしゃる。信心する人の真と言うのは、もう絶対おかげにつながっておるという事。それだけ違う。
%U私その事を今日頂いて、初めてその事を感じるのですよね。ですから、信心さして頂く者の真を追求すると言う事と、普通で言う、「誠の道にかないなば」という詠がありますよね。例えば、拝まないでも神様は守って下さるだろうなんて言う。これは大変な間違いな考え方なんですよね。
%U実を言うたら、信心のない人でそういう事が言える。信心はせんけれども、正直でいきゃちょっと、「正直の頭に神宿る」。そういう考え方が一般にある。そういう意味合いで言う真とですね、信心する人の真の信心なき事とおっしゃる真とは違いがある。どういう違いがあるかと言うと、普通でいう真にはです。清貧に甘んじて、あの人は真の人じゃったけれども。「清貧に甘んじられて一生を終えられた」という様な事になってくる。
%Uだから、信心する者が真を追求して、その真とはどういう様な事なのかと言う事を追求していって、その真の信心をさして頂く事の願いに燃え立って、おかげを蒙るならです。絶対に清貧に甘んじるような事があって良かろうはずがない。
%U本当に、この世は極楽のいろんな意味合いに於ての、おかげが受けられる約束がしてある。それが違う。そこでお互いが、信心はさして頂いておりますけれども、真の信心をしておるかどうか。おかげにつながる様な信心を頂いておるか。おかげと言うのは本当のおかげ。
日々、その様々な願いを持って、願いが一つ一つ成就すると言った事もおかげだけれども。ここで言う、私がおかげは「真の信心には、真のおかげが伴わなければならない」と言う事。真のおかげとはどういうおかげか、そこで、「その真の信心なきこと」とおっしゃる。その真の信心とは、「そんなら教祖様、どういうような信心を持って真の信心と言うのでございましょうか」と言う所に、私どもの姿勢がなからなきゃならん。
昨日私、たまたま新聞を見せて、今頃新聞を読まないんです。たまたま見せて頂いて何処でしたかねえ。鯨が浅瀬に乗り上げて死んでおる。浜に打ち上げられておるという写真が出てました。西日本新聞です。餌を追って勢いよくやってきたのは良かったけれども、浅瀬に突っ込んだんですね、鯨が。
それで死んで間もないという鯨です。三十人掛かりで運搬しょうとしたけれども、とにかく、もう動かす事も出来なかったと、マッコウ鯨。で、それをいくつかに切ってから、市場に出して思わぬ収益を得たと、こう言うのである。
四神様がみ教え下さってある中に、[大海のような信心をせよ。大海のような信心をすりゃ鯨が住む]とおっしゃった。[竹の筒に水が溜まった様な信心をするから、おかげはぼうふらのようなもんじゃ]。そういうぼうふら的なおかげに甘んじてはならない。鯨の住むようなおかげ、大海のような信心をさせてもらわにゃいけん。
けれどもやっぱり、そのたまには、その鯨のようなおかげを頂けん事もない訳ですね。鯨の方からやってきた。鯨が浜の方へ打ち上げられたりする様な事もあるのですから。けれどもね、そういう、例えばおかげは、いわば死んだおかげであるという事なんです。
世の中には、百万円の宝くじが当たったとか、今時は百万円じゃないでしょうね。何百万かでしょう、宝くじは。終戦直後のあのどさくさの時分には、随分商売にでない、商売に当たったとか言う人が随分ありました。けれども結局は、影を潜めてしまいましたですね。それは死んだ鯨だからですよ。生きたおかげじゃない。生きたおかげでなからなければならない。
それにはやはり、大海のような信心さしてもらわにゃいかん。浅い所に鯨は、住むはずは大体ないのだけれども。たまには、そういう様なのがあるという事。死んだおかげを頂いて、それこそ思わぬおかげにホクホクしておるだけの事。その時だけ。
それからもう一つ、新聞に出ておりましたが、これは佐賀かどこかでしたかねえ。「牛に突き殺されて死んだ」と言う記事。自分の飼い牛にですね。もうやたらに突かれて死んでいる。とうとう猟銃で何十発と玉を打ち込んで、その暴れ狂う牛を仕留めたという様な記事であった。普通考えられないですよねえ。飼い牛に突き殺されるなんて、飼いならしてある牛なんです。どういう様な事であったか知らんけれど、そういう様な事があった。
これは、私思いますのに、お互いがそれぞれめぐりを持っている。昨日でしたか、誰かが言うておりましたが、合楽におかげ頂かんならん人ほどめぐりが深いんだ。そりゃ、もう本当にそうだと思います。私自身がめぐりの深い家に生まれめぐりの深い男でございますから。人並み以上の苦労をさして頂いた事になるんです。
ですから、そういうめぐりの深い私の所に集まってくるのですから。やはり類は類を持って集まって来るのですから、皆さんとても、めぐりの深い自覚に立たなければばいけません。自分はめぐりの深い男だ、自分の家には深いめぐりがあるのだ。だから合楽に御縁を頂かねばならない様な事になっておるんだ。
私は、二、三日前にある方に、ある難儀な問題をお取次さして貰う時に申しましたんですけれども。そういう大きな、いわば、難儀があればある程です、おかげが大きいんだと。もう、これはやはり、ひとつのめぐりの現われであろうです、けれどもです。この世の中の仕組みというか、神様のお働きの中にはです。やはり難儀が、お働きの中に難儀があるのですけれども。
その難儀と言えば、めぐりが元なんでしょうけれども。このめぐりというものにはですねえ。「絶対正しい信心。いわゆる、真の信心すりゃあ、めぐりには負けない」と言う法則がある。これは、もう絶対なんだ。そこが素晴らしいですね。
%Z牛を家のめぐりとお知らせ下さるですね。ここでは牛のお知らせを頂きますとね。%Z蛇のお知らせを頂くと、身のめぐりと、こうおっしゃるが。たまには、そういう様な事がないじゃないですよ。やはり牛に突き殺される様な事があってるんですけれども。本当言うたら、絶対に牛に突き殺される様な事は絶対にない。
%1「家のめぐりが大きければ大きい程、難儀が大きければ大きい程です。それが必ず、大きければ大きい程、大きいおかげの元になる」と言うこと。ここを、お互い確信して進まにゃいかん。ですから、皆さんが、ある意味合いに於て、「へとへと」と言う時にはです。言うならば、めぐりも「へとへと」の時なんですよ。「こげん難儀があるじゃろかと言うような、難儀にへとへとするような時にはです、言わば、めぐりの方もへとへとの時である」と分からして頂いて、ここで私どもが、元気を出さしてもろうて、神様におすがりをする。そこから、どこから湧いて来るかわからん程の力が頂けてくる。そういう中にでも。
%1そして、このめぐりに取り組んで打ち向かわさせて貰う時です。絶対にめぐりが、負けねばならない様になっってる仕組みがある。神様の世界の中には。「正しい者が絶対に勝つ」と言う一つの法則があるのです。けれども、そのいかに正しかっても、こちらがへこたれたらたまにはめぐりにやられる場合がある。昨日の牛に突き殺されたと言うのがそれなんです。これは死ぬるとか生きるとか、そんな事じゃないです。
%1私の方でも、めぐりが出てまいりましたら、もうどうにもこうにもしょうがない訳なんです。次々と難儀な事が続いてまいりましたけれども。その難儀な事が続いて来たけれども、その難儀な事にひとつも負けてない。いよいよその難儀を、言わば、征服しておる。これはもう、例えば、もし本当に一応の力でですね。めぐりと対決した場合。絶対一応の力であってもめぐりの方が負ける事になっておる。
%1ですから、そんならめぐりが五十の力であるのに、こちらが四十の力でどんやったっちゃいけない事になります。めぐりが大きければ大きい程、おかげが大きいのであり。めぐりには絶対打ち勝てる、いわば、仕組みがある。神様のお働きの中には。
そこで、そのお互いが、「信心する者の真の信心なきこと」とおっしゃる、真の信心を目指さないで、真の信心がないという様な事ではおかげが受けられませんから。「その真とはなんぞや、真の信心とはどういう信心であろうか」と言う願いをもってです。信心をさして頂かなければなりません。
%2昨日、夕方、桜井先生から電話がかかってきた。今、高層建築のいろんなサッシの御用をしておられます。大変言うなら、危険な仕事なんです。高い所へ登らななりませんから。四階建ての建築を請け負ってそこをなさっておられた。その時仕事をなさっておったのは二階であった。その二階からですね、転落された。
%2そして、その落ちられるその下が地下室につながっておった。それは二十メ-トルからのコンクリ-トで、その地下室に通じておった。だから二階と言っても大変高い所となってくるのですね。けれどもおかげ頂いてから、「カスリ傷程度で、おかげ頂ましたから」と言うお届であった。
%2「カスリ傷であっても、動かれん位にあるだろう」と思いよったところが、昨夜、終のバスで見えたと言うですから。終のバスで、親子四人連れで御礼に出て見えておられるのです。奥さんが言うておられますが、「もう聞いてから、体がガタガタ震え出した」と言うように、知ってあるんですよね。その現場を。
%2ですから、あそこから落ちて助かったということがですね。そういう訳なんです。それから話を聞かせてもらうと、まるっきり神様が、こうずっーと受けておって下さったような感じなんです。落ちよるうちにいろいろ考えたと、神様のおかげちゃ有難いですね。それから途中にアンペラがあったのに、引っ掛かってふわっとした感じで下へ落ちたところが。
%2そこには、もう当然かたずけてしまってなければならないのに一枚のトタンが置いてあった。そのトタンに引っ掛かった時に、手がこんな具合に落ちよった。そこにパイプがあったそのパイプの上が引っ掛かった。それでその下の方は地下室、二十メ-トルからある地下室になっておった。まあ、おかげ頂いてから、「本当にカスリ傷程度、〈そこかしこに〉青じゅんどといった程度でおかげ頂きました」と言うのである。
%2「本当に命拾いをした。広大なおかげを頂いた」と言う事なんだけれども。神様がどうして、そういうような働きを持って、いわば、助けて下さったかと言う事なんです。ここん所を、ひとつ分からして頂くと、お互いが真の信心にならにゃおられんのです。神様がどうして合楽に御縁を下さったか、神様がどうしてこのようなおかげを下さったか。
%2それを只、「広大なおかげ頂きまして有難うございます」と、言うだけでは、真の信心にはつながらんのです。そういう時に、私は神様がですねえ、本当におかげを下さろうとしておるという事。神様が本当に、「御用に使おうとしておられる」という事。私は、そこんところの信心が分からなければいけない。
そんなら神様に、いよいよ使うて頂けれる。使われ良い私に、ならして頂くところの精進をするという事が、真の信心なんだ。お道で言う真の信心とはそれなんだ。何故ならば、合楽のようにめぐりの深い所に皆さんを、縁を作ってくださったか。何故金光様の御信心をさして頂かなければならないようになったか。神様はやはり、御用に使うて下さろうとする願いがあるからなんだ。
それで、いつ迄もいつ迄も分からんから、場合には、そういう難儀な事にもなったり、「九死に一生」と言ったようなおかげをはっきり見せて下さる。こらぁ神様が、自分にどういう大きな願いを持っておられるか分からない。いや神様が、私を本当に御用に使うて下さろうとする願いがあっての事であろうと気付かしてもろうて、そんなら使うて下さいと言うだけじゃいかん。使われよい私にならにゃあいけんという事。
そこに素直が求められる。大海のような信心が求められる訳なんです。そして神様が御用に使うて下さるために、「おい、こら、こら」言いなさるとに、向こうども向いて知らん顔しておるような事では、どうもこうもされんでしょうが。神様が、「こら、こら」となったら、「ハッ」とそちらを向けるおかげを頂かれる、素直さを持たなければいけんのですね。
そして、日頃頂いておるみ教えを、もう一遍頂き直さねばいけない。日頃頂いておる、そういう生き方にあり方にならしてもろうて、お互いが真の信心を目指さなければならない。これは「信心のある者の真と信心のない者の真」と言うのは違うのだ。神様が御用に使うて下さろうとする。そういう働きをいろんな意味合いで見せて下さる、感じさせて下さる。
そんなら御用に使うて下されと。どうぞ、お役に立ちたいお役に立ちたいと言う念願に燃える。同時に、お役に立ちたいお役に立ちたいと言うだけではいかん。どういうお役にでも立てれる私に、まずならなければならない。そういう願いに燃え立っての信心、御用に使うて頂きたい。そんなら使われよい私にならしてもらおう。いちいち理屈ばっかり、いちいち口返答ばっかりする。そういう者を、もう二度と使おうという気にならないでしょう。
本当に神様から、「右」と言われたら「ハイ」、「左」と言われたら「ハイ」。そういう素直な私にならして頂く。そういう御用にお使い廻しを頂きたいためには、使れよい私にならして頂こう。それには、「どういう風になったら、使われよい私になるのか」という事を考え続ける。また、「それに精進する」という事が、私は、ここでは「真の信心だ」と思うのです。
信心する人の真の信心なきこと。自分の願うことばっかりと言った様な事では。なる程神様が、信心はしよるばってん拝みよるけれども、毎日参って来るけれども、わが言う事ばっかりと言うような人があまりにも多いから、「こういうみ教えを下さったんだ」と思うんですよ。
そうでしょうが。なる程、柏手も打ちよる。拝みもしょる。お供えもしょる。けれども自分の願う事ばっかり。神様の願いに答えようとしない。「お役に立ちたいお役に立ちたい」という願いを持たない。
そういう私共は信心から、真の信心にならして頂くところの、おかげを頂かにゃならん。真の信心とは、今私が、今日は、神様から使われよい私にならして頂こう。そういう願いを持たなければならない。「お役に立ちたい、お役に立ちたい」という願い。そんなら、いくら立ちたいと言うてもです。
強情であったんでは使われにくいから、使いにくいからいよいよ素直にならせて頂くところの信心。同時に大海のような、大きな信心をさしてもろうて鯨の住むような生きたおかげを頂かしてもらわなければ、生きた御用に立てません。そげな鯨が打ち上げられると言った様な事は、もうめったにと言うか、まずないことなんですから。
けれども、たまにはある。世間にもやっぱりある。信心が無くても儲けだしよるとがおる。あれは死んだば鯨を頂きよるのと同じ事ですよ。ですから、そういう様な死んだ鯨では、いくら鯨の住むようなおかげであってもです。それで生きた働きの出来るはずがない。神様の喜んで頂くような御用に立てるはずがない。
どうでも生きたものを頂かなきゃならん。ためには心が生きておらなきゃいかん。同時に、私共は、どういう難儀に立ち向かわして頂きましてもです。その難儀の正体と言うたらめぐりである。 いわゆる牛が暴れ回っておるようなものであるけれども。「こちらが真の信心さえ持って向かえばです。絶対めぐりの方が負けなければならない」と言う規則があるという事。
これは、もう絶対のものですから、そこんところをです。本気でひとつ打ち向かう事を、「安心のおかげを頂く事だ」と、こう思うのです。絶対に勝てるんだ。絶対におかげが頂けれるんだ。そこに生まれて来るのが安心なんです。安心のおかげを頂いて本気で修行させてもらおう。本気で改まらしてもらおう。本気で、いよいよ大きな信心にならして頂くという願い。それが「真の信心」という事を申しましたですね。どうぞ。